竜の軌跡

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  --8--  

「ククッ、こうも簡単にいくとはね」
 刃をレイののどもとに突き付けたまま男が笑った。
「お前は、海神の配下兵……! 裏切ったのか!」
 穹天が牙を剥く。
「裏切った? 違うねぇ」
 レイの位置から男の顔は見えない。だが、その声には心底楽しそうな色が含まれていることがわかる。勝利を確信した、声色。
「もうちょい臣下のこと、観察しとくべきだぜ。王使獣さんよ。……ああ、それ以前にこの警戒心のカケラもない王様も問題か」
 言ってぐいと刃をレイののどに宛がう。
「……!」
 恐怖で息ができなかった。背筋がすうっと冷えてくる。
「やめろ!」
 穹天の悲痛な叫び声がした。必死に視線を動かしても見えるのはやけに繊細に装飾された天井だけ。
「やめると思うか? 俺はこいつ殺すためにここに来たのに」
 本気だ。こいつはひとを殺すことになんの躊躇いもない。
 心底恐ろしいと感じた。
 異常だ。人として。
「せっかく就いた新王さまだけどな。ご挨拶もできず、非常に残念です」
 からからと軽い口調だった。同時に刃先が皮膚に食い込む。
 ――しぬ。
 思わずぎゅっと目を瞑った。
 息が詰まる。
 そして、同時に聞こえた悲鳴。それは、レイのものではない。
「う、わっ」
 いきなり前向きに倒され、反射的に床に手をつく。何事か理解する前に強く腕を引かれた。
「立て! 走るぞ」
 セツに引っ張られ、つんのめりながら振り向く。男が目を押さえながら喰らいつく穹天に応戦していた。
 王室の扉を抜け、長い廊下に駆け出す。
 一体何が起こった?
 走りながら首に触れると、濡れた嫌な感触。指先についた血を見て頭が真っ白になる。
 冷たくて薄い刃が、この首を、ためらいなく……。
「ちょっ、ちゃんと走れって! 今度こそ殺されるぞ!」
 セツに怒鳴られ、レイは必死に意識を引き戻した。
 そうだ。今自分は生きてる。こんなところで呆けてる場合じゃない。
「ど、どこに行くの?」
「いいから! こっち!」
 城内はとても複雑で広く、まるで迷路のようだった。無我夢中だったとはいえ、以前城を飛び出せたのが不思議なくらいだ。
 時折通りすがる兵たちが不思議そうにこちらを見る。
 今、城内に同じ天権兵の敵がいる。伝えたいけれど……この人たちもまた、敵だったりするのだろうか。
 ほとんどセツに引き摺られるかたちでようやく城の外に飛び出した。見張りの門番が声を上げるが、セツは無視して走り抜ける。
 息遣いが荒い。こんなに走ったのは秋のマラソン大会以来だ。足がガクガクする。
 城下町に入り、人々の間を縫うように走った。様々な色が目の端で溶けて混ざる。途中何度か人にぶつかったが、謝る暇もなかった。
 しばらく走って、ちょうどレイがおばさんと出会った住宅街から少し離れた人気のない雑木林にふたりは飛び込む。
 この世界の木は、一本一本が日本で見る一般的な木々よりはるかに大きい。太い根の隙間に隠れてしまえば、そう簡単に外から見つけられないだろう。
 巨大な木の根に寄り掛かり、レイは息を整える。ひんやりとした木肌が火照った体に心地よい。
「使獣たち、うまく逃げられればいいけど……」
 セツが小さくつぶやいた。あれだけ走ったあとなのに、多少呼吸を乱してはいるもののなんとも涼しい顔だ。
「さて、この状況をどうしたもんかな」
「セツ、どういうことなの? なんで俺は……助かった?」
 首の傷跡に触れる。血は乾き始めているものの、まだ熱を持ったままだ。
「事車だよ。事車が気配を消して奴の目を攻撃した」
「事車が……」
「その瞬間に穹天が飛び掛かった。俺はそのゴタゴタにまぎれてレイを救出」
 一連の出来事を、レイは見ていない。だが、三人の鮮やかな連携が目に浮かぶようだ。自分なんかはただ、恐怖に震え、抗うことすらできなかった。
「……ありがとう。なんか、すごい」
 それしか言えない。結局、セツには二度も命を救ってもらった。
「はは、事車の不意打ちコンボは前の代から使われてたんだぜ。だから、あいつに気付かれないか、内心ヒヤヒヤしてた。寿命縮まったよ、まったく」
 言葉とは裏腹に緊張感のない口調でセツは笑う。
「……そういえば、あいつ、あの男の人って、本当に天権の……兵なの?」
 レイを殺そうとしたあの男。特別目に留まることもない、一見どこにでもいる、穏やかな風貌の人。
 裏切ったのか、という穹天の驚愕の声が脳裏に蘇る。
 信じたくない。だが、確かにあの刃は、言葉は、レイを殺そうとしていた。まったくためらわずに。
 視線を上げると、セツの顔から笑みが消えていた。
「……王だ」
「え?」
「玉衝王、破乱」
 言って、セツは目を閉じる。
「姿は、確かに天権の兵。……でも中身は、玉衝王なんだ。たぶん」
「あの天権の兵が、玉衝の王だってこと? そんな、どういうこと?」
「オレは玉衝の新王に会ったことがないから、姿はわからない。でもあの雰囲気は確かに前玉衝王のものと同じなんだよ。……確証はないけど、どこかで天権兵と玉衝王が入れ替わったか、操られてるか。どんな気術を使ったのかはわからないけど」
 正直混乱してるんだ、とセツは呻いた。
「あの天権兵、清風様が王のときからこの城の警備してたんだ。穏やかで、どんな仕事も嫌な顔一つせずにやる人だった。玉衝と裏で繋がりがあるだとか、そんな裏切り者だったなんて、考えられない……考えたくない」
 外見は天権兵のままなのに、中身が玉衝王だなんてこと、あるのだろうか。あまりに目まぐるしく変わる状況に頭がついていかない。
 少なくとも、今城内はかなり危険な状態にあるだろう。王使獣たち……穹天や事車は無事だろうか。
 そして、自分はこんなところにいていいのだろうか。国の内部に敵国の王がいるというのに……。
 ふと思い立ってぞっと鳥肌が立つ。
「もし城の中にいるのが玉衝王だったとしたら、この国、乗っ取られちゃうんじゃないの?」
 浅葱城は天権国の最高政治拠点だ。王政の国のことはよく知らないから本当のところはわからないが、自国の城を玉衝王に占拠された時点でこの国は玉衝に取られたも同然になるのではないだろうか。
 問われた方のセツはきょとんと首をかしげる。
「うん? それは大丈夫。この世界で土地と王権を乗っ取るには、王を殺して王玉を奪わなきゃいけないからさ。レイのいた世界とは仕組みが違うのかな?」
「……うん、かなり違うね」
 そうだ、この世界はかなりファンタジックな要素が多いんだった。このあたりは未だ非現実的なところでもある。
「まあ、だから、レイが生きてれば国の方はとりあえず大丈夫。王玉がない王に土地は従わないからさ。王玉、ちゃんと持ってるよな?」
「え、あ、うん」
 あわてて首にかけてあった王玉を取り出す。灰色の勾玉は曇り空からの鈍い光を受けて青や緑の閃光をちらちらと描き出した。
「相変わらずちゃらちゃらした石だな」
 セツが懐かしげに目を細める。前王、清風様もこの王玉を持っていたのだろう。よく見せようとレイは勾玉をセツの目の前に差し出す。
「ぎゃっ」
 同時にセツが後ろに跳び退いた。勾玉を払いのけた手をパタパタさせている。
「? どうしたの?」
「ば、馬鹿! 王玉は王以外触れられないって、言われなかったのか?」
 泣きそうな声で言われてはっとした。
 そういえば海神がそんなことを言ってたような気もする。
「……ご、ごめん。大丈夫?」
「ヘーキヘーキ。まったく、海神も抜けてるからなぁ。ちゃんと教えておいてもらわないと」
 セツの手を見ると、火傷したように少し赤くなっていた。レイはぎゅっと勾玉を握ってみる。この冷たい石が、セツの手に火傷を負わせるなんて信じられない。
 レイは王玉を首にかけ、うつむいた。この石は、やはり間違いなく自分を王だと証明している。
「これから……どうすればいいんだろう」
「とりあえず双幻サマと合流したいな。穹天たちと会うのは危険だろうし、向こうもうまく奴を撒いてくれるとは思う。……向こうが王使獣を出してこなければ、だけどね」
 ひとつ嘆息して、セツはにっこり笑った。
「まぁ、そんな暗い顔するなって。王が単独で乗り込んできたんだとしたら、こっちにもチャンスはある。な?」
「うん……」
 笑顔を返そうとしたが、うまく笑えない。自分がふがいないせいで王使獣たちを危険に曝してしまった。そして、城内部に敵がいる。国全体が本当に危ういのだ。こんな状況でなぜ、セツは笑顔になれるのだろう。
「双幻サマは確か防壁辺りで軍備を整えてるんだったか。うーん、ここから結構距離あるな。しょうがない、オレが獣化して……」
 言いかけたところでセツがふと顔を上げた。
 遠くの方で何やら声がする。レイも耳を傾けた。
 ――すみませーん、だれかいますかーあ?
 今度ははっきり聞きとれる。女性の声。町の人だろうか。それにしても、こんな雑木林に?
「迷子?」
 ――すみませーん、だれかいますかーあ?
 うろうろと、同じところを回っているようだ。何度も繰り返されるその声に色がない気がして、レイは寒気立った。
「助けてあげた方がいいのかな」
「いや、人に居場所を知られるのはまずい。あ、でも可愛い子だったら迷っちゃうかもなー」
「……」
 本当に緊張感のない人だ。レイが呆れていると、セツがぴくりと身を強張らせる。
「ん?」
 次第に女性の声が近くなってきていた。しかも、その声は一人のものだけではない。
 四人、五人……七人、十人……。
 いつの間にか複数の人がこちらにやって来ている。
「集団迷子?」
 んな馬鹿な、とセツに突っ込みつつ、レイも異様な感覚を覚えた。こんな人気ない林に人々が大挙して押し寄せるだろうか?
 ――だれかいますかーあ?
 一人目の人が目の前を通り過ぎていく。その姿を見て、レイは思わず息をのんだ。
 怪我を負った、女性。衣類は焼け焦げ、手足は泥だらけ。肩からは血を流している。
「な、んだ、こりゃ」
 セツが声を引き攣らせて呟いた。
 後から後から、同じような人々がぞろぞろとやってくる。半分焼けた荷を引き、おぼつかない足取りで。
 戦争という字がぐるぐる頭の中を回った。血の赤が瞼の裏に焼きつく。
「なんでこんな、怪我、して……」
 瞬間、人々の背後で大きな爆発音が響いた。木々が燃え上がり、炎の赤をバックに黒い複数の影が浮かび上がる。
「玉衝兵、まさか、敵襲……」
 セツが信じられないというように首を振った。レイにはこの光景全てが信じられない。
――追ってきた、追ってきた!
 人々が口々に叫んで走りだした。黒い影が次第に大きくなる。巨大な鳥に騎乗した兵士達。紺地に赤の牙模様。玉衝の兵士。
「どうなってるんだ。なんでこんなところに……」
 普段は飄々としているセツの声にも焦りが混じっている。
 爆発音が連続して聞こえた。そして、人々の悲鳴。地面が揺れ、曇り空に赤い光が射す。
「……!」
 レイは無意識のうちに耳を塞いでいた。聞きたくない、見たくもない。
「とにかくここを抜けねえと……」
 セツが呟いた瞬間、背後に猛烈な熱気、そして大きな振動が襲った。
 振り向くと背後の木が赤々と燃え上がっている。
「ひっ」
 レイは思わず後ずさった。躍り上った炎の熱気が肌を照らし、焼き付ける。パチパチと音を立てて枝葉が揺れた。
「くそっ」
 セツがレイの腕を強く掴み、木の陰から飛び出す。飛び出す拍子に木の根につまずいてレイはその場に倒れ込んだ。
 逃げ惑う人々の目が一斉にこちらを見る。端々が緋色に揺らめく風景の中、その目はひどく虚ろだった。
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