竜の軌跡

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  -序章-  

「お止め下さい」
 止める声を振り切って、彼女は走っていた。一寸の光もない、闇の中を。
 空間を超えるのは、強力な術者とは言え、かなりの体力を消費する。人の形を持続できず、彼女の体が陽炎のように揺らぐ。
 彼が知らないことがある。彼が知る必要のないことだ。
 それ故、彼女は空間を翔ける。
 声にならない叫びを上げた。それは、我が身の咎を背負うであろう、まだ見ぬ子の為。

「ないしょの呪文?」
「そう。内緒のね。誰にも言っちゃいけない」
 教えられたのは、日本語とも、外国語ともつかない、不思議な言葉の羅列。彼は小さくその言葉を繰り返した。
「それから、これを」
 差し出されたぴかぴかの銀色に輝く鎖の環を、彼は何の疑問も持たず、受け取った。首に掛けようとしたところを止められる。
「首に掛けてはいけないよ」
 彼は不思議そうに首を傾げ、それをポケットに入れた。じゃらん、と鎖が鳴る。
「それはね、お母さんとお前を繋ぐものだよ」
 彼は、どうして、と問うた。今更そんな嘘をつかれても嬉しくなかったからだ。どんなにしても、失った者に逢うことはできないと、知っていた。
「もし、お母さんに会いたいのなら、それを常に持っていなさい。絶対に手放してはいけないよ」
 ――そんなの嘘に決まっている。

 戻らないのではないか、と彼は思った。
 戻りたいと、彼女はねがった。
 戻らないと、彼は知っていた。

 嘆きの声は、旋律となって歌を紡ぐ。
 満身創痍の紅蓮の龍が、満月の夜空に踊り出た。
 それを、見た者がいた。
 
 ――できることなら、出会いたくなかった。

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